真珠養殖の歴史

1893年に日本の箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功し、1905年、英虞湾の多徳島で真円真珠の生産に成功しました。後、御木本の「真珠のネックレスで世界中の女性の首をしめる」という言葉を現実のものとし、真珠養殖が栄えます。
あこや真珠の養殖場は一般的には波静かな穏やかな湾の中が適しているので、英虞湾は養殖筏を占める割合も相当なものでした。

養殖貝による真珠生産が始まってから幾年もの歳月が経過しましたが、近年では需要も減り、またウイルス感染症によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および諸々の排水による英虞湾の富栄養化などの要因から志摩のアコヤ真珠の生産量は低下しているといわれています。
生産が難しく厳しい環境で行う養殖作業。それだけに貴重な真珠・・・かつてはダイヤモンドよりも価値のあるものだった。古来より日本書紀や古事記、万葉集には、すでに天然真珠の記述が見られ、万葉集には真珠を詠み込んだ歌が56首含まれるそうです。
御木本幸吉が真珠の販路拡張に尽くした功績は大きいが、これを助長する養殖方法の改善に、多くの技術者と経営者が努力したという功績も確かに残っています。

懐かしい昭和初期の頃の御座烏賊浦、養殖の作業風景をホームページでご覧頂こうと思いまして、父の代で撮影された写真の古いアルバムを探しました。どれも時代を感じさせられる貴重な写真ばかりで、当時はお手伝いに来て下さっていた方が大勢いたことも解ります。現役で頑張っていた両親の写真がとても懐かしいです。

烏賊浦(いかうら)の昔の風景や貝出し、貝そうじ、玉の取り出し作業以外にも、お客様が工場に視察に来て下さった時の写真も載せました。
昔は貝に抑制をかけるために竹で作った卵(らん)かごを使用していたんですよ。
大敷の写真やチリ津波の時に筏が1ヶ所に固まってしまっている写真も掲載いたしました。